ゲームと子どもの遊び


 そんなことを考えるにつけ、目標に到達しようとすることは、ある種のゲームのようにも思えてくる。ゲームは楽しむために存在する。ゲームにルールがあり、勝ち負けがあるのも、ゲームで遊ぶ楽しみを増やすためだ。ルールや勝敗とは、ゲームからより多くの喜びや楽しみを引き出そうと工夫して考えられたものなのだ。

 そのことは、子どもが遊ぶのを考えてみれば分かる。子どもは遊びで勝つために遊ぶのではない。そんなふうに目を血走らせて遊びはじめる子どもがいたら、ちょっと怖い。

 子どもは勝敗のことなんて気にしない。そうではなく、子どもはどうすれば遊びが楽しくなるかをいつも考えている。

 つまらなく感じたら、新しいルールや勝ち負けを自分たちで作り出す。チーム分けする時だって、一方的な試合ではつまらないから、できるだけ五分五分に近づけようとする。たとえば、ジャンケンで勝った方から交互にチームメンバーを選ぶといったように。

 もちろん、子どもだってゲームがはじまったら全力で勝ちを目指す。勝ったら嬉しいし、負けたら悔しい。でも、子どもは勝つためだけに遊んでいるわけではない。

 むしろ、子どもは、遊ぶために遊んでいる。勝敗は、その後で結果としてついてくるものだと考えている。だから、子どもは負けることを恐れない。

 目標に到達しようと努力して、結果が得られることもあれば、得られないこともある。でも、ゲームに勝ったとしても、負けたとしても、精一杯自分の力を尽くせたと思えば、それで僕らはけっこう満足できるのではないだろうか。その結果を引き受けて、清々しく、次のステージに進むことができるのではないだろうか。

 少なくとも子どもは、そのような世界で生きている。だからこそ全身全霊で生きている。だからこそ世界に自然な興味を抱き、学ぼうとしていないのに学び、成長し続ける。

 大人になるにつれて、どういうわけかそうした子どもの頃の生き方を失ってしまう。そして、学ぶ楽しさも、生きる喜びも失ってしまう。やがて変化を拒むようになり、水たまりが淀んでいくように心はすさんでいく。

 それは、すべて結果に縛られていることが原因であるように思える。そうではなく、プロセスを味わい尽くしさえすれば、僕らが生きていることはもっと楽しくなるように思える。どんな結果になるにせよ、自分の可能性を追い求めて学び続け、人生を味わい尽くしたのなら、きっと後悔することはない。

 僕は理想論を語っているのではない。だって、僕らは誰だって子どもの頃にはそのように生きていたのだから。それを思い出し、再び取り戻そうとすれば、僕らは子どもの頃に抱いていた、未来にわくわくしながら、その瞬間瞬間を全力で生きる姿勢を取り戻すことができる。そうすることで、いつの間にか封印してしまった、自然で力強い学欲を取り戻すこともできるはずだ。