市民プールでの発見


 「結果のパラドックス」は勉強に限ったことではないので、もっと身近な例で考えた方が分かりやすいかもしれない。これを書いている今、ちょうどいい体験をしたので、それについて語ってみよう。

 僕は長い文章を書くときは、毎日少しずつ書くのではなく、短期集中で一気にまとめて書く。だから今も一日中部屋にこもってパソコンに向かって書いている。そんな生活を数日続けた時点で、この引きこもり生活は体によくないと感じて、家の近くにある屋内型の市民プールで毎日一時間泳ぐことに決めた。

 僕は小さな頃は夏休みになると学校のプールに通うような子どもだったし、いまも海に行くのが好きなくらいなので、泳ぐことは嫌いじゃない。

 でも、一時間という目標を決めて泳ぎはじめると、これが、つらいのなんの。泳ぐことが嫌いじゃないと言っても、きちんと習ったことがあるわけではないから、上手には泳げない。素人の泳ぎだから、長く続けて泳いでいるうちに息がどんどん苦しくなってくる。

 それでも、さすがに一時間も持たずに投げ出すのはかっこ悪い。一応、毎日のように「諦めるな」なんてことを塾生に伝えている塾長なわけで。それに、つらいといっても途中で歩きながら休憩すればいい。結局のところ、たかだか一時間のプールなので、我慢して泳ぎ続けていればいつかは終わる。

 そうやってだましだまし泳いでいたのだけれど、時が経つのがやけに遅く感じられた。「そろそろ十五分くらい経っただろう」と思って時計に目をやっても、三分くらいしか過ぎてなかったりして。

 なんとか目標の一時間を耐えしのいだ後、プールから上がって家に帰る途中、なんとか耐えたというささやかな達成感よりも、明日は泳ぎたくないな、という気持ちの方が強いのを感じた。いくら健康のために、と言ったって、こんな苦しいことをする必要はないだろう。明日からプールに行くのをやめようか。

 そう考えた時に、ふっと気がついた。

 ああ、こういう経験を繰り返して勉強を嫌いになっていくのだな、と。

 「プロセスを楽しもう」なんて文章を書いている僕ですら、「一時間泳ぐ」という「結果」に縛られていたことに気がついた。そのことに気がついた翌日、僕は考え方を変えてプールへと向かった。

 「一時間泳ぐ」という「結果」を意識しないようにして、泳ぐことそれ自体を楽しもうと決めた。楽しむためには上手くなることが大事なのは分かっていたから、泳ぎ方のコツを事前にインターネットで調べて、ポイントを頭に叩きこんだ。それから、正しい泳ぎ方のフォームを動画で見て、それを真似することを意識して泳ぐようにした。

 はじめからインターネットで読んだ通りにいくわけはなかった。頭では分かっていても、体がついてこないのだ。息継ぎは苦しいままだし、どのように水をかけば一番推進力があるのかも、どんな体勢がいちばん水の抵抗が少ないのかも分からなかった。

 でも、少しずつだけれど、自分が上達しているのは実感できた。それまでよりもスピードが出たり、呼吸も以前と比べれば、多少なりとも楽になったような気がした。それを試行錯誤しながら泳いでいるうちに、ふと気がついて時計を見ると三十分も経っていた。

 こうなると残り時間が惜しくなった。残りの時間は、限られた時間の中でできるだけ上達しようと、昨日までとは違う集中力を発揮できた。その日の帰り道は、体はずいぶん疲れていたけれど、心地いい疲労感だった。

 泳ぎが上達したこと。それを楽しいと感じられたこと。だからこそ、これからますます上達できそうなこと。そうしたことを考えると、また明日も泳ごうという気持ちが自然に湧いてくるのを感じた。

 思えば、この市営プールに来たのは、小学生の頃以来だった。その頃はプールから帰らなきゃいけないのがイヤで、時計も見ていなかった気がする。必死で遊んでいたら、いつの間にか日が暮れていた。そして、もっと泳ぎたいのにな、という気持ちを残したまま家路についた。

 あの頃は「結果」なんて気にしていなかった。その瞬間瞬間を全力で楽しみ、生きていた。ひさしぶりに、そうした頃の気持ちを思い出した。