料理の美味しさを知る


 ところで、科目について書いたついでに触れておきたいことがある。

 あまり多くの人が語らないと僕が感じることのひとつに、学ぶことの楽しさがある。

 たとえば天才的な数学者が、数学の芸術的な美しさに魅せられて、といった話を聞くことがあるけれど、僕が言いたいのはそれに似ている。実際、数学が得意だったという学生に話を聞くと、その美しさや奥深さが楽しかった、ということが多い。

 でも、多くの人はその楽しさを知らないまま、いやいやながら勉強をしている。自分が学んでいることが、実はとてもおもしろいのだという実感のないまま暗記だけさせられていても、学ぶことが楽しく感じられるはずがない。

 予備校講師が人気のある理由のひとつは、普通の学校の先生よりも、このような学ぶことの楽しさを感じさせるスキルが高いからだと思う。

 学ぶことが楽しければ、成績は伸びていく。成長を実感できれば、より学びたいという気持ちは当然高まる。そのような循環を作り出すために必要なのが学ぶことの楽しさだとすれば、科目を学ぶ上で一番最初に知るべきは、その科目の内容ではなく、その科目の楽しさではないだろうか。

 数学の美しさだけではない。先に述べた現代文だって、その論理の組み立て方の奥深さを理解できた時、その文章が精巧に作り上げられた芸術品のように思えてくるだろう。

 無味乾燥な年号と用語の羅列に過ぎなかった社会の授業が、そこに登場する人の生き様となりドラマとなって理解できるようになると、歴史の景色は一変する。理科という科目は、僕らの身の回りにあり常識だと考えている事物の不思議さや奥深さに目を見開かせてくれる。それを追求した人々のドラマや歴史は感動的だ。

 社会や理科で学んだことは、人類の歴史を通して僕らに注ぎ込んでいて、それを僕らは活かして生きているし、それを引き受けて未来を作っていくこともできる。そんなふうに感じると、身の回りの物事にぐっと興味がわいてくる。

 英語は他の科目と違って、学ぶためのツールに過ぎない。ただ、それを身につけることによって、僕らは世界中の人々とコミュニケーションができるようになるし、日本語には訳されないものを学ぶことができるようにもなる。

 インターネットの発達により、かつてない人類の共通言語が生まれ、世界のどこにいてもそれを活用することができる時代に、日本語しか使えないのは世界をとても狭める。

 かくいう僕は、大学受験で英語をやったきりなので、ほとんど使いこなすことはできない(せいぜい旅先で会話するくらい)。でも学欲が人一倍強い僕にとって、日本語でしか学べないのはとても窮屈だ。自分の手の届く世界が限定されているのを痛感している。

 一刻も早く日本語という檻から抜け出たいという気持ちのある一方で、いったん始めた道伴舎を軌道に乗せるまでは他のことをする余裕はない。それが僕の偽らざる心境だ。

 まぁ、でも、現実には英語はその上達だけを目的としているうちにはなかなか身につかないものだとも割り切っている。「英語を学ばなきゃ」という切迫感ではなく、「英語でこれをしたい」という気持ちに火がついた時、大学受験で築いた下地を元に、一気に英語を身につけるのだろうと思っている。今は静かに、その時を楽しみに待っている。

 ここまで英数国理社といった主要科目について述べたけれど、ほかの副教科についても、そして学校で習うカリキュラム以外でも、学ぶ対象には必ず楽しさがある。楽しくないと思うなら、まずその科目を好きになってみようとしてみる。そうした工夫をすることで、嫌いだと思っていた科目に熱中する時がやってくるかもしれない。