結果のパラドックス


 こうした失敗へと至る道筋を、僕は「結果のパラドックス」と呼んでいる。結果を求めれば求めるほど、結果が遠のいていくという矛盾のことだ。僕がこのパラドックスに気づくに至ったのには、理由がある。

 かつては、僕の塾に「勉強法」を求めて入塾してくる受験生が多かった。でも、勉強するというプロセスをいかに省略するか、言い換えれば、いかに楽をするかという考えで魔法のような「勉強法」を知りたいと思う塾生にかぎって、うまくいかなかった。

 とりわけ、自分が「楽をしようとして勉強法を求めている」ということに気がつかなかったり、認めたがらない塾生は、勉強法の話を聞きたがるばかりで、実際の勉強にはほとんど身が入らなかった。机に向かっても、集中して勉強することは少なかった。そんな状況で、望んでいた結果を手にできるはずがない。

 そもそも、そこまでの間に勉強することが苦しくなって、途中で投げ出したり、諦めてしまうことも少なくなかった。先の少年のように、結果を求めるあまり、重圧に押しつぶされてしまうのだ。

 「結果のパラドックス」に思い至る前の僕は、なんとかして彼らのやる気を引き出そうと、必死で勉強法を教えたり、励ましたりしたけれど、その想いが届かない塾生はいつだって少なからずいた。

 いま思えば、彼らは僕から勉強法を聞いて、すぐに「結果」が手に入ると考えていたに違いない。でも、現実には、その結果を手に入れるためには、プロセスに集中しなければならない。とりわけ高い「結果」を望んでいればいるほど、当たり前だけれど、そのプロセスに必要な時間も、集中力も、高いものが要求される。

 でも、彼らの「結果」を求める気持ちが強ければ強いほど、そのプロセスはできるだけ省きたいという気持ちもまた強くなる。その結果、「プロセス」としての勉強に集中することはできない。当然ながら、そうした塾生は望みどおりの結果を手にすることはほとんどなかった。

 そうした挫折体験は、彼らのコンプレックスとして、そして一生消えることのない傷として、残っただろうと思う。それも、結果を求める気持ちが他人よりも人一倍強いからこそ、抱えたコンプレックスも大きかったに違いない。そうした塾生の中には、今も傷を背負ったまま生きている人もいるのかもしれない。

 過去を変えることはできない。だから僕は過去を振り返って後悔することはないのだけれど、このことだけはたまに思い出してしまう。と同時に、これは僕の塾に限ったことではなく、このようにして生涯消えることのない傷を抱えている若者は今も日本中で生まれ続けているのだろうと思う。