勉強をやらされることに加えて、その内容が自分に適していないということもよく起こる。
小学校に入ったばかりの頃はさほど問題にならないけれど、学年が上がるにつれて「自分に適したものを学べない」ケースは増えていく。学習内容は難しくなる一方で、できる子とできない子の差は開き続ける。
にもかかわらず、教室ではクラス全員が同じことを学ばされる。こうした全員一律の画一的な授業で、自分にちょうど適したことを学べるはずもない。僕には、ある時には簡単すぎてつまらなかったし、ある時には難しすぎてやる気が起きなかった。
簡単過ぎることに関していえば、まだいいのだと思う。あまった時間で別のことを考えたり、勝手に自分で学んだり、勉強の苦手な友人を手伝ったり、いろんなことができる。でも、難しすぎるのは救いようがない。
実際、僕が一番苦しかったのも勉強にまったくついていけなくなった高校の時だった。一度遅れを取ると、そのままズルズルと引き離されていった。なんとか挽回しようともがいてみても、もはや手遅れ。取り返しのつかないほど広がった差を埋める方法は見当さえつかなかった。
そうなると授業がはじまることすら苦しくなって、教室から逃げ出したくなる。僕が授業中にずっと寝ていたのも、いま振り返れば、その苦しさを誤魔化すためだった。学校を辞めたのも、その苦しさに耐え切れなくなったからだった。当時は、そんなことは考えもしなかったけれど。
これは僕に限った話じゃない。一度遅れを取った途端、かなり危うい状況に追い込まれる。僕らが乗っている「レール」は、そうした危険な場所であることを、子どもは本能的に理解している。だからこそ、健気にも歯を食いしばって勉強しようとする。
たいていの大人は子どもが勉強嫌いだと思っているけれど、子どもは落ちこぼれまいとして必死で机に向かう気持ちを、いつだって心の内に持っているのだ。
でも、残念ながらたいていの子どもは、自分に適したものを学べないばかりに、どこかで挫折を経験することになる。しかも、その挫折から立ち直るための手助けはほとんど存在しない。その結果、勉強は子どもの心に苦い挫折体験としてのみ留まることになる。