「やらされる」のは「なんかおかしい」


 振り返れば、僕は正規の学校教育をほとんど受けていない。

 小学校の授業はロクに聞かない子どもだった。本を読んだり将棋をしたりしている時以外はまったく落ち着きがなかったので、親が心配して子ども向けの精神病院に連れていくほどだった。ちなみに検査結果は、今では発達障害に分類されるADHD(注意欠陥多動性障害)と診断された。血を抜かれたり、猿の知能実験に使いそうなパズルをさせられたりした上に、一方的に病気だと宣告されるのは子供心にショックだったな。まぁ、でも、それはさておき。

 中学校では悪ぶっていたのもあって、いつも遅刻して、授業中にマンガを読んだり、ゲームをしたり、時には授業をボイコットするような少年になった。高校ではネットゲームによる昼夜逆転のせいでずっと寝ていた。学校の先生は呆れて起こそうともしなくなった。大学の授業にもほとんど出席しなかった。一度は中退しようと決めたのだけれど、いろいろあって、最後の一年間、友達や後輩にノートを借りたり手伝ってもらったりしながら、仕事の合間を縫ってレポート提出とテストだけ受けてなんとか卒業した(学校に行っていない期間が長かったので、卒業までに七年もかかった)。

 世間一般の常識や道徳的な考え方からすれば、僕の生き方は非難されても当然だと思う。実際、こうした生き方をしてきたことで、たくさんの人に心配や迷惑をかけてきた。僕の行動のすべてが正しかったなどと言うつもりはない。でも、正規の学校教育になじめなかったからこそ、僕は高校をやめてからずっと一人で学ぶことを続けてきた。

 振り返れば、学校をやめて人生の崖っぷちに立たされ、あと一歩で転げ落ちるということを悟った時に、僕の学びに対する姿勢は変わったのだと思う。このままじゃ生き延びることができないという恐怖心が、僕を死に物狂いにさせたのだと思う。

 それまでの僕は人に言われるがままに勉強していた。イヤだけれど、やれと言われるから仕方なくやっている勉強だった。だから、勉強に対して真剣になったことはなかった。そのことは、当時の僕だって「なんかおかしい」とは思っていた。このままじゃ楽しく人生を送れない気がする。生き延びることができない気がする。

 でも、これくらいのことは僕だけでなく、誰だってなんとなく感じているのではないだろうか。ただ、子どもはそれを言葉にできない。たとえ言葉にできても、その違和感を解消するための方法は見つからない。そのことが昔も今も子どもを苦しめているように思う。そして、その苦しみ方は僕の頃より今の方がひどくなっているように感じられる。

 結局のところ、自分から学ばないと身につかない。そんなことはみんな分かっているのだろう。でも、自分でやる気は起きないから、学校とか塾の授業という「やらされる」ものに頼ろうとする。親も、学校の先生も、それが自然だと思っている。それ以外に子どもが学ぶ方法はないと思っている。大人がそう考えるのだから、子どもが他に選択肢があると考えつくわけがない。

 でも、勉強をそのように捉えることが、どれほど僕らから学ぶ意欲を奪い取り、生きる喜びを減らしているのかに、そろそろ気がついていい頃だと僕は思っている。