「本当に生きたかった自分」の居場所

 十年前の自分は、未来の自分がこうした文章を書くとは思っていなかった。こんな生き方をするなんて考えたこともなかった。そんなこと、僕の想像力のはるか彼方にあった。

 でも、過去を振り返れば、これまで全力でやってきたことの一つひとつがつながっているのが見える。その途中では悩むことも、失敗することもあったけれど、そのすべてを糧にしてきたからこそ今の僕があるのだと分かる。

 いつだって理想の自分に近づこうとしてきた。でも、その理想に近づけば近づくほど、もっと遠くにある理想が目に入った。そうやって理想を追いかけ続けているうちに、いつしか僕は昔思い描いていた理想を超えた場所まで来たように思う。

 それでも僕は、今なお理想を追いかける道の途上だ。今の僕にとって、現状の僕は十分な人間ではない。それどころか、至らないところばかりが目に付く。

 そうした経験を省みれば、自分の理想に追いつくことは永遠にないのかもしれないとも思う。でもその一方で、自分が自分らしく生き、人生の舵を自分の手で握り締めている実感は、すこしずつ強くなってきた。

 思うに、「本当に生きたかった自分」は、それと出会うまでは見つけることができないのかもしれない。それは愛する人と出会うのにも似ているのかもしれない。心から愛する人と出会わない限り、自分はどんな人と巡り合いたかったのかはわからない。出会ってはじめて、自分はこの人と出会いたかったのだ、ということが分かる。

 だとすれば、いま自分がどんな人間になりたいのかが分からなくたって当たり前なのかもしれない。むしろ「こういう自分になりたい」と決めつけてしまっている方が危ないのかもしれない。

 理想は、いつだって更新されていく。そして、その更新され続ける理想を求め続けて、絶え間なく学び続け、瞬間瞬間を全力で生き続けているうちに、いつの間にかなっているもの。それが本当に生きたい自分なのかもしれない、と今の僕は思う。

 十年くらい前の僕には、もちろん、そんなことは考えもつかなかった。ただ、もし十七歳の時に高校をやめたまま、自分の可能性を信じずに学ぶことを諦めていたら、僕はきっと地方都市の狭い自室から出ることはなかった。今の自分に出会うこともなかった。でも、ギリギリのところで踏みとどまり、僕は外の世界へと歩みだした。

 時々、こうした人生を送っていることを不思議に思うことがある。だって、他の人にはちょっと変わった生き方をしているように思えるかもしれないけれど、僕は僕なりに、その瞬間瞬間を精一杯に生きてきただけだからだ。

 そして、精一杯生きているのは僕だけじゃない。誰だって、精一杯に生きている。高校をサボっていた頃の僕だってそうだった。

 人はみな精一杯生きているのに、無知ゆえに、不運ゆえに、そして助けがないゆえに、自分の可能性を信じて生きていけなくなってしまう。人生を諦め、絶望し、その結果、自分でも後悔すると分かりきった行動を取ってしまう。

 誤解を恐れずにいえば、凶悪な犯罪を引き起こしてしまう人だって、そうなりたいと思ってこの世に生を受けたわけではない。そうならざるをえない何かがあったのだ。

 僕らはほんのささやかな違いによって、自分の人生を生きるために歩きはじめるか、歩きだせずに諦めてしまうかが決まってしまう。それは「仕方ない」ことなのかもしれない。少なくとも、これまでの時代においては。

 でも、僕らの生きる時代は、それを「仕方ない」で済ませずに解決できる可能性があるように思える。人が自分の人生を生きられなくなることを「仕方ない」で済ませないこと。人間の可能性を、諦めないこと。それを諦めなくていいだけの力が、現代の僕等には与えられているのではないだろうか。