世界にはたくさんの問題があるけれども

 世界には学欲の問題だけでなく、もっとたくさんの問題がある。

 たとえば、今だって読み書きができない人は世界中にたくさんいる。食べるものがなかったり、紛争が原因で人が亡くなることもある。それは決して映画の中だけの世界ではない。悲惨極まりない事態は、平和な国に生きている僕らが目を逸らしているだけで、世界中で起こっているのだ。

 でも、そうした問題のすべてを僕が引き受けられるわけじゃない。自分の生活をするのだって精一杯の僕に、そんなにたくさんの問題は引き受けられない。でも、せめて学欲という問題だけは、自分の問題として引き受けていきたい。

 すこし変わっている人生を歩み、どういうわけか塾を開くことになってしまった僕が、できることといえば、それくらいしかないというのもひとつの理由だ。でも、それ以上に、僕にとって学欲は、世界中のあらゆる問題を解決するための根本的な力のひとつになりうるものだと感じられる。

 繰り返すけれど、世界には無数の問題がある。この日本という国の中だけだって、まだまだ問題だらけだ。理想的な世界があるとすれば、人類はまだそこへ1%くらいしか到達できていないのではないだろうか。

 だとすれば、人類史的にいえば、僕らはまだ99パーセントの解くべき問題を抱えているということになる。

 ただ、それはいつの時代だってそうだった。ほんの六十数年前の戦争直後は、この国だって生きるための基本的なものすら足りなかった。いま僕がこれを書いている公民館の後ろで将棋や囲碁をしているおじいちゃんおばあちゃんたちが子どもの頃は、まだそのような時代だった(そう思うと不思議な気持ちになるし、昔話を聞いてみたくもなる)。

 そうした時代があったことを思う時、僕はなんて幸福な時代に生まれたのだろう、としみじみ感じ入ってしまう。僕らが生きているこの社会においては、衣食住と呼ばれる生きるための欠かせないものは、基本的には満たされている。そんなことを「問題」だと思う必要性がほとんどなくなっている。

 きっと戦後の日本人は衣食住の満ち足りた時代を目指して頑張ってきた。戦争という悲惨な経験を通して、人々が平和に暮らせる社会を作り上げようと必死で生きてきた。

 そして、ある時にそれを手にした。手にしたけれど、勢い余って行き過ぎてしまった。それは、人間が浅はかである限り仕方ないことだと僕は思う。でも、行き過ぎて失敗したことで、この国の人々はどんな方向に進めばいいのかもわからないまま、ずいぶん長いあいだ、自信を喪失したまま年だけが過ぎていったように思える。

 衣食住の満ち足りた世界を目指してきた僕らの父祖たちは、それを問題として掲げ、そして解決した。僕らは、その問題が解決された現代の日本という世界に生きている。

 父祖たちのおかげで、ただ生きるためだけなら、困らない社会になった。でも、困らずに生きることができる時代に生まれた若者は、これまでの父祖の価値観では幸福なはずにもかかわらず、ずいぶんつらそうに生きてやしないだろうか。

 生きるべき道を見失って、無力感とコンプレックスに押しつぶされ、時にはその生命すら絶ちかねないほど絶望的な状況に置かれている若者は少なくない。

 現代の若者の多くは、生きるための基本的なものすら困窮していた時代の若者よりも輝いているようには思えない。発展途上の国の若者の生きいきとした表情を見る時、それが痛切に感じられる。

 彼らの生活は苦しく、人生は厳しい。自由や平等が保障されていないことも多い。病気やテロで若くして亡くなることもある。そのような暮らしが素晴らしいと言うつもりは毛頭ない。でも、そのような状況であっても、理想を持ち、未来に希望を持って生きている人は少なくない。そう、僕らの父祖がそうだったように。

 僕らの父祖が戦争に負けた後、この国には何もなかったが、希望だけはあった。でも、すべてが満ち足りたはずの僕らの時代に、希望だけは見当たらない。そんなふうに揶揄されるこの時代に、僕らは指をくわえて黙っていることしかできないのだろうか。