学欲を押さえつけているものの正体


 でも、こうした考え方ほど子どもの心を傷つけるものはない。学欲を押さえつけ、人の可能性を徹底的に奪っていくものの正体は、まさにこうした考え方だと僕は思う。

 もし、生まれつき才能のあるなしが決まっているとすれば、何かに対して努力することは才能のあるなしを証明するための手段になる。たとえば、勉強をすることは、学校の定期テストや受験を通じて、自分には勉強の才能があったのかなかったのかを証明するための場に過ぎなくなる。

 でも、才能のあるなしを証明するためにイヤイヤながらする勉強を、心から楽しめるわけがない。二章で述べたように、そうした勉強を繰り返す果てに、どのような証明の結果になるにせよ、もともと自然に備わっていた学欲は失われてしまう。

 それだけではない。

 学欲をすり減らしながら努力を続ける途上で挫折しかけることがある。そんな時に「自分は才能がないのではないか」と感じた時点で、努力する意欲は急速にしぼんでいく。だって、才能がないのだったら、やっても無駄だということははっきりしている。ならば、つらいことはやらない方がいいに決まっている。

 とても合理的だ。僕ならそうする。というか、事実、僕はそれを実行したのだ。そうやって目の前の努力すべきことから逃げた。学校を辞めた。ずっと後になって、塾を立ち上げてから、こうしたことは僕に限った話ではないということを実感した。

 人には生まれもった才能があり、自分は才能がない人間に属する。そのような考え方を持っている限り、自分で自分の学欲を消し去り続けることになる。学びたいという気持ちが起こっても、そんなことしても無駄だと自分に言い聞かせることになる。

 それは、学びたいと声にならない声で叫ぶ自分を、もう一人の自分が、自ら築いた檻の中に縛り付けているようなものだ。学びたいという自然な欲求が押さえ込まれることによって、僕らの心の中には葛藤が生まれ、不自然な感情が渦巻くようになる。それを自己否定と言ったり、卑屈や憂鬱と呼んだり、あるいは無力感と表現することもできる。

 ネガティブな感情は、僕らの可能性をすこしずつ、しかし確実に奪い去っていく。

 学欲を解き放ち、自分の可能性を取り戻すためには、間違った思い込みと、そこから生まれるネガティブな感情を消し去ることからはじめなければならない。

 でも、こうした思い込みは長い年月をかけて築かれた強固な檻だから、実際のところ、そう簡単に打ち破ることはできない。たとえば、ほら、これを読んできた今だって、心の中に「そんなわけないじゃないか。自分は才能がない人間に属しているんだよ。あんたに才能があっただけだろう」という疑いの気持ちが生じてはいなかっただろうか。

 そうした考えは、僕らの心の内側深くに根を張っていて、ことさらに意識されることはない。だからこそ変えるのが難しい。

 あるいは、もしかしたら「自分は才能がある人間に属しているんだ」という気持ちを抱いて安心したかもしれない。でも、それで安心するにはまだ早い。そのような考え方は「自分には才能がない」という恐怖を裏返しただけに過ぎない。だから、ちょっとしたつまずきによって、その安心は吹き飛んでしまう。

 生まれもった才能がない人間に属していると思うことも、才能がある人間に属していると思うことも、「才能」という言葉に対する一卵性双生児のようなもので、どちらも根拠のない間違った思い込みだと僕は思う。

 さて、ここまで読み進めてきて、どう感じているかな。まだ僕のことを疑っているかな。だとすれば、その姿勢は正しい。人の意見を鵜呑みにしない方がいい。どんな立派な装丁の本だって、偉い人の話だって、それは同じだ。

 自分の頭で考えること。そして、一つひとつの意見を取捨選択して、自分の中に取り込んでいくこと。それ以外に、学ぶということはできないと僕は思う。

 ということで、疑いながらで構わないので、この先を読み進めてみてほしい。読み終わった後には、自分の頭で考えて判断してもらいたい。