切りだされた問題は解決する


 これまでの人類の歴史を振り返れば、切りだされた問題の多くは解決されてきた。たとえば「自由」という言葉について考えてみよう。「自由」という言葉は、「教育」と同じように、日本にはたかだか百年くらい前に運び込まれた言葉に過ぎない。

 でも、僕がこうやって自由に文章を書いていられるのも、人類がその歴史の中で「自由」とは何かを問いかけ、その価値を認め、その実現のために問題を切り出し、ひとつずつ解決してきたからではないだろうか。

 もし自由がなければ、僕が自由に塾を開き、自由に文章を書き、自由に生きることはできなかった。なにせ、まだ二百年も経っていない坂本龍馬の時代ですら、この島国では自分の生まれた藩から出ることもままならなかったのだ。

 歴史的にみれば、自由という言葉がはじめて学問上で問題になったのは、二十五世紀くらい前の古代ギリシャだとされている。その頃のギリシャでは奴隷制が当たり前だった。奴隷という存在を問題だと感じないまま「自由とは何か」とか「自由は重要なのか」といったことが議論されていた。今から考えれば笑っちゃうような光景だけれど、彼らは彼らなりに真剣に考えていた。

 自由という言葉をめぐって人類は想像を絶する努力を重ねてきた。僕は素人だからそれについて詳しいわけではないけれど、きっと数え切れない思考を積み重ねてきて、その実現のために行動してきた。その過程では、時に争いが起こり、血が流されただろう。

 そうした人類の努力によって、自由を奪われ、奴隷のように生きるのはよくないことだ、という共通の認識が生まれてきた。いま僕らが平然と享受している「自由」は、そのような人類の営為の上にかろうじて成立している。

 「貧困」という問題も同じようなものだ。誰かが「貧困」であっても、それに心を痛めることのない時代は存在した。でも、貧困は人間の幸福や自由を阻むものとして、乗り越えるべき障害だという共通の認識が持たれている。そして、そうした問題を解決するために、世界中で数え切れない人が立ち上がり、努力をしてきたし、今もしている。

 「自由」にしても「貧困」にしても、人類が歴史の中で切り出してきて、長年の風雨にも耐えて生き残ってきた大切な問題だ。こうしたものはとてもやっかいな問題だから、まだ世界のすべてにおいて解決されきってはいるわけではない。

それは決して遠く離れた世界だけの問題ではない。たとえば人類史上で最も「自由」を手にしている僕らは、果たしてその「自由」を十分に活かせているだろうか。むしろ「自由の重み」に耐えかねて、それを放棄してしまうことの方が多いように僕には思える。

 でも、たとえばこの国において「読み書き」や「衣食住」が満たされてきたように、それが問題だと認識されることによって、すこしずつ解決へと近づいてきた。問題は問題として人々に共有されることによって、それを解くために人々が自然と立ち上がり、やがて解決へと至る。自由も、貧困も、未来において、より発展した形で解決されていくだろう。

 僕らの内なる学欲は、それを実現するための原動力だ。心の奥底にある、学び、成長して、世の中にある問題を解きたいという欲求。閉じ込められていた学欲を解き放つことで、その力は再び僕らの中に取り戻される。そう、僕は信じている。