強くならなきゃならない


 いくら他者に貢献したいと考えていても、そのための力がなければ難しい。若者の多くは学欲を失ってしまっているために、他者に貢献したいと思っても、なかなかそれに必要な力を身につけられない。少なからぬ若者が、そのジレンマに引き裂かれている。

 大学生のうちはボランティアで他者に貢献できるかもしれない。そうやって他者に貢献する喜びを味わうことは素晴らしい。でも、社会に出てからも他者に貢献するためには、自分の身を守りながら、他者に貢献できるだけの力を養っていく必要がある。そうでなければ、分業というシステムを回す歯車の一つにならざるをえない。

 突き詰めて言えば、歯車のように働くことにだって意味はある。それだって、立派に他者に貢献している。でも、他者に貢献したいという気持ちを強く抱いていればいるほど、システムの歯車としての役割を果たすことに満足できなくなってしまう。

 他者に貢献する喜びを知っていながら、現実の自分にはその力がないと思い知らされると、僕らの心には無力感が生じる。その無力感を悔しさに変えて、学ぶモチベーションに変えられればいい。でも、学欲を失い、自ら学ぶ力を失った人には、その現実はただ絶望的であるに過ぎない。

 そうした悩みは、僕らの父祖には贅沢な悩みだと映るのかもしれない。彼らはそんなこと考えてないで黙って働けというだろう。でも、どうしたってそのように生きたいとは思えないのだ。少なくとも、僕はそうだった。

 だとすれば、他者に貢献できるだけの力をつけなければならない。それがなければ、他者に貢献することなんて夢物語だ。自分が強くならなければ、大切な人を守ることもできない。そして、強くなるためには、学ばなければならない。

 そのような考えの元で、僕は自力で学び続けた。たとえば大学では授業にほとんど出なかったから、周りにはただサボっていただけのように映っただろう。でも、その時の僕には、そこでは自分が求めている学びは得られないだろうと感じていた。その場所でのうのうと四年間を過ごしていたら、他者に貢献するどころか、自分一人が生き延びることすら難しくなると感じていた。

 強くなり、生き延びなきゃならない。そうした危機意識は、おそらく、学校を二度も中退した経験から高まったのだと思う。既存のレールに乗っているだけでは、そのレールそのものが崩壊した時にどうしようもなくなってしまうと僕は実感していた。だからこそ、レールに乗るのではなく、自分で道を切り拓ける力を身につけなければならない、と。

 道伴舎が「自分で道を切り拓く力」を大切にしているのは、それっぽい言葉を飾りにしているのではなく、困難な時代を生き延びるためには絶対に欠かすことのできない力だと僕が実感してきたからだ。