数えきれない否定体験


 それでも、結果を求めるだけなら、まだいいのかもしれない。本当に悲惨なのは、求めた「結果」は、現実には、求めたほどには手に入らないということだ。しかも、求めれば求めるほど「結果」は遠ざかっていく一面すらある。

 中学三年のある少年がいるとしよう。彼はそれまで進学のことなんて考えたこともなかったけれど、夏が近づいて部活が終わり、クラスで進学の話題が出るようになって急に気になりはじめる。やがて、自分もある高校に行きたいという気持ちが芽生える。

 名前だけ知っていた高校は、調べてみると自分の実力よりかなり高いところにある。その間を埋めるためには、勉強するしかない。どうしようかなと思って親に相談すると、どうやらその高校に行くのに大賛成のようだ。

 学校見学はたいして面白くもなかったけれど、親の期待にも応えたいし、自分の心の中にだって「いい高校に行きたい」という気持ちが芽生えている。友だちに負けたくないし、気になるあの子の評価も高まるかもしれない。

 反抗期真っ盛りの男の子は決してそんなことを口にはしないし、そうした心の動きに自分でも気が付かないけれど、でも、よく観察すればそう思っていることが分かる。

 けれども、同級生の誰もが似たようなことを考え、勉強もする中で、普通に考えて、いまの実力よりかなり高い結果を求めてもうまくかない可能性が高い。なんとかして結果に近づこうと一日十時間の勉強時間を自分に課す。

 合格しなきゃという気持ちは、次第に強迫観念めいたものへと変わる。親の期待。自分の期待。友達へのプライド。そうしたプレッシャーは、それまで経験したことのない重みとなってのしかかってくる。それでも、少年は耐えて机に向かい続ける。息苦しさで勉強に集中なんてできないのに。十時間と決めた目標は毎日なんとかクリアしているけれど、実質は机に向かっているだけで頭に入っていない。

 高い目標を掲げて望み通り受かれば最高だ。でも、物事がそんなに上手く運ぶことは少ない。結果を求め過ぎたあまり、その重圧によって少年は押しつぶされる。

 その結果、どんなことが起こるのか。

 親の期待にも応えられなかった。それに加えて、自分も求めていた結果を得られることができなかった。それによって、一度の失敗で、二重の否定体験をすることになる。

 子どもは、小学校の頃から、人によってはそれより以前から、こうした経験を積み重ねていく。それらは、日常的なささやかなことから、受験という大きなイベントまで、さまざまな形で僕らの前に繰り返し現れる。

 そして、そのたびに僕らは親の期待に応えられない悲しみと、自分の価値が否定されるような喪失感を味わうことになる。学ぼうとするたびに、子どもは悲しみと喪失感に打ちのめされるのだ。

 やがて、子どもは「自分の能力はこんなもんだ」という気持ちを抱くようになる。そうやって自分の限界を勝手に定めるようになってしまう。そうすれば未来に希望を持つことはなくなる。それと同時に、悲しみや喪失感に打ちのめされることもなくなる。

 希望を裏切られるのは、たしかにつらい。悲しみや喪失感に耐えられなる気持ちも理解できる。でも、だからといって自分の限界を子ども自らが定めてしまうのは、あまりにも切ない。