野性を取り戻す

 ある頃までは、僕は「学びたい」という欲求を持っていた。でも、いつの頃からか、それは次第に失われていき、ついにはまったくないかのような状況になった。ただ、それは完全に失われてしまったわけではなかった。一時的にフタをされていただけだった。

 強力に封印されていたフタがゆるむまでには、強烈なショックと時間が必要だった。でも、僕の心の奥底には「学びたい」という気持ちが死なずに残っていた。その気持ちを閉じ込めていたフタを開けた時、「学びたい」という気持ちは僕の中に自然と戻ってきた。

 「学びたい」という気持ちにフタをしていた「勉強」から離れることによって、僕の学びへの欲求は取り戻された。学校にいかなくなったことで、学びたいという気持ちが戻ってきたというのは、なんとも皮肉なことのように思える。

 でも、それが僕の実感なのだ。塾を立ち上げてからは、学ぶ欲求にフタをされてしまった若者との出会いを重ねた。日を追うごとに、僕の個人的な実感は、社会に広く蔓延している問題であるという確信へと変わっていった。

 学ぶことを嫌いになってしまった若者と出会うたび、狭い畜舎に詰め込まれて無理やり高カロリーの食事をさせられるブロイラーのことを思う。食べたいとも思わない時に無理やりエサを与えられて、食べることの喜びを失ってしまった哀れなブロイラー。

 だがある日、食べることを嫌いになったブロイラーが、幸か不幸か、畜舎から逃げ出すことができたとしよう。食事にありつけなくなって腹が減った時、はじめてブロイラーはエサを探し求めて山をさまようだろう。そして、食べられそうなエサを自力で見つけて口に入れた時、ずっと忘れていた食事の美味しさに気がつく。それはブロイラーが本来持っていた野性を取り戻す瞬間だ。

 僕もまた一匹のブロイラーだった。なにかがすこし違っていれば、永久にその畜舎に閉じ込められたままだったかもしれない。でも、学校という場所から去り、誰からも勉強をさせられなくなったことではじめて、畜舎を離れたブロイラーが野性を取り戻すように、自然な本能を取り戻した。

 こうした僕の考えは、おかしいのだろうか。学びたい、という欲求が本能的なものである、というのは突飛な考え方なのだろうか。でも、子どもの頃は誰だって抱えきれないほど大きな「知りたい」「学びたい」という気持ちを抱いてはいなかっただろうか。

 赤ん坊が世界を見つめる目は、好奇心であふれている。小さな子どもが言語を学ぶ力は、どんな語学の達人よりも高い。子どもはあふれんばかりの学ぶ欲求を持っている。そして、どんな大人だって昔は子どもだった。

 そうしたことをよくよく考えてみれば、高校生くらいになると英語や数学が嫌いになって当たり前だ、という考えはどこかおかしいように思えてこないだろうか。それは人間の本能ではなくて、人間を育てる仕組みがまだ欠陥だらけなために、本当は花開くことのできた可能性が失われてしまったのだとは考えられないだろうか。