生まれもった欲求としての「学欲」


 この章のはじめに、僕はこのように書いた。

 「子どもは年をとるにつれて勉強が嫌いになっていくものなのだ。それが永遠の真理なのかどうかはひとまずおいておくとしても、世間一般の常識ではそう考えられている」。

 これを読んだ時に、そういうものだよね、と思わなかっただろうか。おかしいと感じることなく自然と読み進めたのではないだろうか。それとも「いや、違うぜ」と一人つぶやいていただろうか。世にそのような人があふれていることを願いたいけれど、僕の知る限り、そうした考えを持っている人は残念ながらとてもすくない。

 「学びたい」という気持ちが失われてしまうことは、当たり前のことだと僕らは考えている。子どもが次第に勉強嫌いになるのは、太陽が沈めば空が暗くなるのと同じくらい自然なことだと思われている。でも、本当にそうだろうか。

 すくなくとも、僕にはそうは思えない。僕らは「学びたい」という欲求を、成長の過程で奪われているというのが事実ではないだろうか。

 もう一度、僕が最初に書いたことに戻ろう。

 僕らは成長するにつれて次第に勉強が嫌いになるのだろうか。現段階での答えはイエスだ。今のまま学校で勉強を「やらされる」限り、僕らがそれを好きになることはむずかしい。教育や社会の仕組みがそのような考え方を前提に作られている以上、僕らもそのような考え方に染まらざるをえない。だから、勉強は嫌いになる。

 でも、僕らの心の奥底には「学びたい」という欲求が生き続けている。僕の経験から言えば、それは僕らがこの世に生まれ落ちた時に持ち合わせている本能のひとつなのだと思う。人類が生き延びるために食欲という強烈な欲求を備えているのと同じように、僕らは生き延びるために「学びたい」という欲求を与えられている。

 その欲求のことを、さしあたって「学欲」と呼ぶことにしよう。それは学問的に証明された欲求ではないけれど、それを「知的好奇心」とか「学ぶ意欲」とか「モチベーション」と言ってしまうと、なにかが失われてしまう。

 だから、あえて「学欲」という耳慣れない言葉で呼んでみたい。

 学欲。

 それは僕らが生まれもった「学びたい」という強烈な欲求だ。この欲求は、赤ちゃんの泣き声にも似た強さを持っている。「生きたい」という生命の迸りの根本を形作っている欲求だからだ。だから、たとえフタをされていたとしても、そう簡単に消えてなくなることはない。

 僕が小さい頃、人間の三大欲求として食欲、睡眠欲、性欲(排泄欲)があると教わった。これは世界共通の見解ではなく、日本独自の考え方らしい。人間の欲求とは何なのかは、いまだに専門家の議論でも意見が分かれるようだ。

 だから、素人の僕が勝手なことを言ってもさしたる害はないだろうと思って、あえて言い切ってしまおう。

 赤ん坊や小さな子どもが見せる「学びたい」という本能的な欲求は、食欲にも睡眠欲にも性欲にも劣らない自然な欲求なのだ。それが奪われてしまうのは、食欲を失うことにも似た異常な事態なのだ。食べることができない人や眠ることのできない人が不健康になるように、学べなくなった人は心身に異常をきたす。

 あるいは、こう言うこともできる。十八歳の少年が正常な性欲を持っていることが健全であるように、十八歳の少年は旺盛な学欲を持っていて然るべきなのだ、と。

 でも、現実は違う。十八歳に近づくにつれて、僕らは恐ろしいスピードで学欲を失っていってしまう。受験へ向けて無理矢理に勉強をやらされた結果として、受験が終わった後には畜舎のブロイラーのように学ぶことを嫌いになったまま生きるようになってしまう。

 それは、致命的な病気を抱えたまま生きるようなものではないだろうか。処方箋の書かれないまま病状は悪化していき、精神的にも肉体的にも人は追い詰められていく。最悪の場合、この病が原因で人が命を失ってしまうことすらあるように僕には思える。