「教育」という言葉の問題点


 なぜこんなことになってしまっているのだろう。目的と手段が転倒し、結果とプロセスの順番がちぐはぐになってしまっているのだろう。

 結論から言えば、その原因は不完全な資本主義が生み出した歪みなのだと僕は考えている。不完全な資本主義が手段と目的の転倒を引き起こし、プロセスより結果を志向させているのだと僕は思う。

 これは、それだけで一冊の本が書けそうなくらい興味深いトピックなのだけれど、それは僕の手に余る仕事だし、なにより、この本の主題ではない。だから、あまり深く立ち入らないでおきたい。

 ただ、それに関してあえてひとつだけ触れるとすれば、「教育」という言葉そのものにも、この問題は強く結びついていると僕は考えている。

 教育という言葉は、そのまま読めば「教え育てる」ということになる。僕らはこの言葉にほとんど疑問を抱くことなく受け入れてきたはずだ。でも「教え育てる」という言葉には、よくよく見れば、どこか不穏な空気が流れているように感じられないだろうか。

 そこには、どこか「何らかの目的を達成するために」、という要素が含まれているのではないだろうか。そして「何らかの目的を達成するために」というのは、まさに「結果」を求めようとすることではないだろうか。

 教育という言葉がこの国で使われるようになったのは、実はそう遠い昔のことじゃない。明治維新の前後で、Educationの訳語として教育という言葉が使われるようになった。それを先導したのは、その当時の国づくりをしていた人たちだろう。

 でも、その訳語に真っ向から反対した人がいる。福沢諭吉という、現在の一万円札の顔にもなっている人だ。慶應義塾という私塾の創設者として、僕にとっては先輩筋にあたる人でもある。おそらくは日本で一番の、といってもいい教育者であった福沢は、実はEducationは「教育」ではなく「発育」とすべきだと述べていた。

 「すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり」(岩波文庫『福沢諭吉教育論集』所収「文明教育論」)

 「はなはだ穏当ならず」という表現に込められた福沢の怒りっぷりが、おもしろい。でも、当時の日本で最高の知識人であった福沢は、自分の経験だけでなく、歴史的にも「発育」という訳語の方が正しいというだけの根拠と自信があったのだと思う。

 Educationの語源をたどると、ラテン語のEducoに行き着く。そしてEducoというのは「引き出す」という意味だ。それは福沢諭吉が「天資」と呼んだ、一人ひとりに与えられた天賦の才能や可能性を「引き出す」という意味だろう。

 教育という言葉は、むしろこれとは正反対のことを意味している。「教え育てる」という言葉は、「引き出す」のではなくて「押し付ける」ことを意味している。

 「教え育てる」という考え方は、日本が開国して西欧諸国に肩を並べようと必死になっていた時代に、焦って取り入れた資本主義的な教育観なのだと思う。そうした世界観の下で行われる「教育」は、国家の発展という目的を達するための手段にならざるをえない。その結果、人が学び、生きることすらも、その目的に従属する手段へと成り下がる。

 福沢諭吉はそのことに気づいていた。だから、あれほどまでに強く反対したのだ。