虚栄心では癒せないもの


 結果を求めすぎることの問題は、それが往々にして、自分が心から求めているものではない、ということから生まれる。たとえば学歴という受験生の多くが求める「結果」にしても、そこから「他人に評価される」という要素を取り除いた後、ワクワクする気持ちを抱いて勉強できる受験生がどれだけいるだろうか。

 「学歴」が手に入ることがないのなら、多くの受験生はこれほど必死で勉強しないように僕には思える。でも、もし「学歴」が手に入らないなら勉強しなくなるのだとしたら、大学の意味っていったい何なのだろう。そのような考えで大学に入っても、そこで何も学ぶことができないのは、当然の結果ではないだろうか。

 矛盾したことを言うようだけれど、僕は、勝負のリングに上がる時はいつも「絶対に勝つ」という決意を固めてきた。絶対に勝つ、という覚悟を抱いていなければ、その勝負に本気になることはできない。その意味で、最初から「結果」を無視しているわけではない。

 でも、一度リングに上がった後に勝ち負けを考えることはなかった。だって、試合開始のゴングが鳴った後に僕ができることは、目の前のことに全力を尽くすことだけだから。

つまり、リングに上がるまでは「絶対に勝つ」という結果への決意を固めるけれど、ゴングが鳴ったら勝負のプロセスに没頭するのだ。

 「絶対に勝つ」と覚悟を決めても、当たり前だけれど、長い人生において負けることはある。でも、自分が心から求めるもののために、自分の意志で上がったリングでは、他人が「意味がない」とか「絶対に無理だよ」と言ったとしても、僕らは最後の最後まで勝つための最善を尽くす。僕が受験を志した時も、塾を立ち上げた時も、そうだった。

 その一方で、自分が心から求めるものではなく、「見栄」や「プライド」を満足させるための勝負では、「絶対に勝つ」という覚悟を持ち続けることは難しい。だから、決意を固めてリングに上がっていない人は、ゴングが鳴ってからもずっと結果がどうなるかが気にする。

 気になれば気になるほど、負ける時の恐怖は大きくなる。そして、たいていの場合、そのプレッシャーに押しつぶされ、全力を尽くすことができないまま勝負を終えてしまう。たとえ運よくプレッシャーに耐えて勝つことができたとしても、その勝負を終えた後は、再び次の「結果」を求める終わりなきレースに駆り出される。

 「結果」のために勉強する子どもたちは、こうした終わりない競争の果てに、小さな頃には自然に備えていた学欲を失ってしまう。見栄やプライドのために勉強した挙句に、学ぶことそれ自体を嫌いになってしまう。

 見栄もプライドも結果だけを求める気持ちも、自分が心から求めているものではない。だが、自分が心から求めていないものに、なぜ人は自分の人生をそっくり賭けてしまえるのだろうか。

 それは僕にとって長いあいだの疑問で、ずっと考えてきた。まだ正解かどうかは分からないけれど、いまのところ僕はこう思っている。

 「自分が心から求めていること」を手にできていないからこそ、ぽっかり空いた心の穴を見栄やプライドといった「虚栄心」で埋めようとする。それは、喉の渇きにも似た「満たされなさ」を、代わりのもので満たそうとする行為であるように思える。

 漂流した船乗りが、のどの渇きをうるおすために海水を飲んでも、渇きは満たされるどころか、よけいに強くなる。それと同じように、心の満たされなさを代用品で埋めようとしても、決して癒すことのできない渇きを強めるだけではないだろうか。