学校のカリキュラムの意義


 学ぶことを通して身につけるのは知識だけではない。学ぶことによって、僕らは知識を得るとともに学欲を高めていく。

 学ぶことによって、僕らは自分の成長を実感できる。と同時に、僕らがいかに物事を知らないかを痛感する。でも、その痛みは、自分にまだまだ成長する可能性が秘められているとも告げている。

 知れば知るほど、自分が何も知らないことを知る。自分は成長しているけれど、もっともっと成長することができる。そうした感覚が僕らの学欲を限りなく高めていく。

 理想的な学校というのは、そのような場所なのではないかと僕は思う。

 でも、現実の学校はカリキュラム通りに授業を行い、知識を無理やりにでも覚えさせることが優先されるために、生徒の学欲が犠牲に供されていく。すべての学校や教室がそうだとは言わないけれど、そうしたケースが多すぎると僕は感じてきた。

 率直に言って、そうした現状はただただもったいないと思う。

 そもそも、学校のカリキュラムは何のためにあるのだろう。受験でよい点数を取るため? 就職に役立てるため? たしかに、現実にはその程度にしか役立たないように思われているのかもしれない。

 でも、僕の考えではカリキュラムとは、人類が長い歴史の中から「若い時に知っておいた方がいいもの」として抽出した知恵と経験の結晶なのだと思う。そこには、人類がおもしろいと感じたことが、基礎的な事柄であれ、詰まっている。そう思えば、カリキュラムとは、人類のドラマそのものの結晶とすら言えるのだ。

 その選ばれ方が理想からは程遠いとしても、カリキュラムは、それなりの歴史と少なからぬ手間暇がかけられて築きあげられている。その教え方が十分でないとしても、それを学ぶことは必ずその先の未来で役に立つことを、人類の歴史が保証している。

 先にも述べた通り、僕らが学ぶことは、未来においてどのようにつながるのかは誰にも分からない。それを身につける努力が、必ずしも今すぐ報われるわけでもない。でも、それらを身につけることによって、僕らの見える世界は広がっていく。手の届く選択肢は広がっていく。それこそがカリキュラムの意味なのだと僕は思う。