以上は僕の個人的な死生観であり、誰かに押し付けるつもりはないということを断っておきたい。死生観はとても大事なことだから、誰か一人の考えを受け入れるのではなく、自問自答を繰り返しながら、ゆっくりと時間をかけて深めていくことが大事だと思う。
僕自身、まだ死生観がはっきり定まったわけではないし、死への恐れが完全に消え去ったわけでもない。ただ、このような考えを深めていくことで、「学ぶ」ということが僕の眼前にそれまでと違う相貌をもって現れた。
それは、こういうことだ。
「死ぬ瞬間」に至上の価値を置く生き方は、どこかで「結果」のために「プロセス」を犠牲にする生き方に通じている。それは、いま生きている自分を置き去りにして、どこか遠くにある不確かなものに人生を賭けることであるように思えた。
でも「死ぬ瞬間」という大きなことではなくても、僕らは似たようなことを日常的に行なっている。ある「結果」のために「プロセス」を犠牲にするということ。いま「教育」や「勉強」と呼ばれているものは、まさにそのような構造になっていないだろうか。
結果を得るためにイヤイヤながら勉強をすることによって、僕らは学欲を失っている。それだけではなく、それによって生きている今この瞬間の価値を見失い、結果として、気づかぬ内に自分の人生を丸ごとゴミ箱に投げ捨てようとしているのではないだろうか。
すこし前の問いに戻ってみよう。
僕らは学び、努力することによってどこにたどりつこうとしているのか。人は何のために学び続けるのか。あるいは、人は何のために生きるのか。
その問いかけに対する僕の現時点での答えは、こうだ。人生は何らかの結果を手に入れることが目的なのではない。結果のために人生があるのではない。むしろ、この瞬間を十分に生きるために、僕らは学んでいる。今を素晴らしいものにするために、僕らは生きている。そうした「今」の瞬間以外に、僕らの人生はありえないし、そのような「今」を積み重ねることによって、自然と後からついてくるものが「結果」なのではないだろうか。
それを、このように言い換えてもいい。
人は学ぶために学び、生きるために生きる。
そのように考えることによって、結果を恐れる気持ちは消えていく。僕らは学ぶことで確実にすこしずつ変わっていくことができるし、よりよく成長していくことができる。そのように考えた時、学ぶこと、生きることは、変化と成長のプロセスそのものになる。
たとえば、英単語をひとつ覚えるのも、一ページめくるのも、それは単にテストや受験に受かるための苦役なのではなく、それ自体が自分を変化させ続けているということなのではないだろうか。そうやって、僕らは少しずつ変化していき、その積み重ねによって、僕らはまだ見ぬ自分に出会い続けているのではないだろうか。
僕が言いたいのは、こういうことだ。
結果を得られないと人生に意味はないかのように僕らはどこかで錯覚してしまっている。でも、精一杯生きることに勝る意味なんて、どこを探しても見つからない。