「勉強」という言葉の危うさ


 そもそも勉強という言葉は「勉(つと)めて強(し)いる」と書く。こうした言葉遣いひとつとっても、いかに僕らが「やらされる」ことに縛られているかを見て取れる。

 僕らはどんなことであれ、「やらされる」ことに対して高いモチベーションを保つことはできない。そんなことぐらい小学生にだって分かるはずだ。にもかかわらず、僕らは子どもの頃から大人になるまでずっと、それをやる意味もよくわからないまま、勉強をやらされ続ける。常識的に考えて、そんなものが「生きる力」を養う糧になるわけがない。

 僕の血肉となった学びを振り返っても、誰かにやらされたものではなくて、すべて自分から進んで学んだものだけだった。大学の授業はほとんど全部忘れているけれど、もぐりで受けた単位にもならない授業の内容だけは、いまも鮮明に覚えている。そこで学んだことは、いまも僕の中で生きている。

 そのような僕のスタイルは、高校を辞めて、大学受験を志した時にはじまった。僕の大学受験は、ほぼ完全な独学だった。

 独学というと、あまりいい印象を持たれない。なんとなく辛そうな感じがするし、そんなことができるのは、鉄の意志を持った人か天才だけだよ、なんていう人もいる。

 でも、僕は別に鉄の意志を持ってはいなかった。特別な才能があったわけでもなかった。だから学校も辞めたし、なんども挫けそうにもなった(というか何度も挫けた)。

 ただ、合理的に考えて、僕が生き延びるためにベストだと信じられる方法を考えた結果、このような学び方になった。すなわち、「やらされる」だけの受動的な勉強ではなく、「自ら学ぶ」という意味での主体的な独学だ。

 最初はなかなかうまくいかなかった。でも、自分で考えたり工夫したりしているうちに、少しずつ自ら学ぶことができるようになっていった。自ら学べるようになると、学ぶことは楽しみに変わった。学ぶことによって、自分の人生を自分で創っているのだという実感を持つことができたからだ。そのような感覚は、生きることの喜びを生み出す。

 思うに、「学ぶ」ということは、誰かから「教えてもらう」ことではなく、「自分で自分を育てる」ことなのだと思う。親や教師を含めて、周りの人は、それをサポートするに過ぎない。

 「自ら学び、自ら考える力」を身につけるために、大人は子どもを支えるべきなのに、いま教育と呼ばれているものはその正反対のことをしているように思える。知識ばかり教え込み、子どもが自分で自分を育てる力はほとんど気にかけていない。

 僕には、それが正しいとは、どうしても思えない。それが常識としてまかり通っていることは異常な事態に思えるのだけれど、世の中の教育機関と呼ばれる場所では、それが当然のこととして行われている。