結果を求めて行き着く場所


 ところで、結果を強く求めた人のすべてが、結果を手に入れられないわけじゃない。結果を求めて、厳しいプロセスを耐え抜いて、望みどおりの結果を手に入れる人はいる。

 そうした人には「結果のパラドックス」はあてはまらないのだろうか。僕の考えでは、どれだけ望みの結果を手に入れたとしても、「結果のパラドックス」に縛られている限り、いつかはその重圧に押しつぶされる。

 小学校からの勉強の終着点のひとつは、現在の日本の教育システムでいえば、大学受験と言っても間違いではないだろう。日本中の子どもたちの中で、あまり楽しいとも感じない勉強をうまいことこなして、周囲がうらやむ結果を手に入れる人がいる。

 その一方で、苦しい受験勉強に耐えぬくという経験は、彼らから学欲を奪い去っていく。大学に受かった暁には、もうこんな苦しい勉強なんてしないで生きたい、と思うようになる。これで、学ぶことの嫌いな大学生が一丁できあがる。

 こうした状況は、どれだけ「高学歴」とされる大学だってたいして変わるわけではない。むしろ「高学歴」という結果を求めるために耐えた苦しさの量が多いだけ、もうこんな経験をしたくない、という気持ちは強くなる。

 しかも、そのようにして入った大学は、思っていたほど素晴らしい場所ではない。授業はたいしておもしろくないし、遊んでいても虚しいだけ。やりたいことも見つからずに、学問に打ち込むこともないまま、なんとなく過ごしているうちに就職活動がやってくる。

 そして再び就職活動の「結果」を得るために走りだすことになる。僕の知る限り、少なからぬ学生がこんなふうに大学生活を送っている。そして、また就職活動の結果に一喜一憂することになる。

 どれだけ偏差値の高い大学でも、このあたりの事情はたいして変わらない。むしろ、皆から羨まれる大学であればあるほど「結果」に縛られた大学生が多いように思える。

 たとえば、同じ大学でも自分より偏差値の高い学部の学生という理由だけでコンプレックスを抱く学生がどれだけいることか。それとは逆の立場で優越感を抱くのも、同じ問題の裏返しにすぎない。

 周りから見れば十分な「結果」を手にしているのに、本人はいつまでもささやかな結果の違いを気にしている。自分が築きあげてきた虚栄心を壊さないために、何歳になっても「結果」にこだわり続けるのだ。

 そのようにして「結果」を求める人たちがたどりつくのは、「結果」を追い続けるという終わりなき苦しいレースなのではないだろうか。人間誰しも歳を取って衰えていく中で、そのようなレースを死ぬまで続けていける人はいるのだろうか。

 世の中に一人くらい「俺は勝ち続けたぜ」と言いながら死んでいく人がいてもいいけれど、すくなくとも僕は、そんな人生を歩みたいとは思わないな。