「教育」を超えて


 僕らが大人になるまでに与えられるもの、それを「教育」と誰もが疑問を抱かずに呼んでいる。でも、そこに問題が潜んでいるのかもしれない。「勉強」という言葉の響きが持つ「押し付けられている感じ」は、その大元である「教育」にも含まれている。

 そう考えると、僕らが教育を受けて大人になる過程で、学ぶことを次第に嫌いになり、自分の可能性に見切りをつけ、学欲を根こそぎ失ってしまうことは、むしろ自然なことに思えてくる。

 でも、だからといって、その自然の流れに任せていていいわけではないだろう。それに現代は福沢諭吉が生きていた頃と比べれば、一人ひとりの学びの可能性はずっと開かれている。そのような時代に生きている僕らは、これまで「教育」という言葉で呼ばれてきたものを超えて、新たな学びの次元にたどりつくことができる可能性を秘めている。

 そうした世界を僕は夢見ている。福沢諭吉ですら辿りつけなかった世界も、今なら決して不可能ではないと思う。その一助に、僕はなりたい。

 振り返ってみて、こんな数奇な人生を歩むことになった僕ができることは、逆に言えば、それくらいしかないようにも思う。幸いなことに、それは僕の人生において十分に挑むべきテーマであると感じる。

 だから、ここから先は、その実現のために僕が考えたことについて述べていきたい。そのために、次章では僕らの凝り固まった「常識」を考え直すことからはじめよう。



(二章終わり)