誰が学欲を押さえつけているのか


 学欲は、さまざまな社会のプレッシャーによって抑えつけられてしまっている。家庭や学校はその主だった役割を果たしてしまっているけれど、必ずしもそれだけが問題なのではないと僕は思う。

 先に述べたような常識がまかり通っているがゆえに、新聞やテレビやインターネットといったメディアもまた、そのようなプレッシャーを自然に与える役割を果たしている。そして、知らず知らずのうちに子どももそうした常識を身につけ、いつしか互いにプレッシャーを与え合う存在になっている。

 そもそも、社会というのは、いまここを生きている僕ら一人ひとりから成り立っている。その一人ひとりが関係し合って社会を構成していると考えれば、どこかに諸悪の根源があり、それを断てば問題は解決されるのだというイメージはどこか間違っているように思えてくる。

 むしろ、僕ら一人ひとりから成り立っている社会がどこか問題を抱えているとすれば、社会の問題はどこか遠くにあるのではなく、僕ら一人ひとりの心の中に存在するのではないだろうか。

 その問題が目に見える壁のようなものだったらハンマーを持ってぶっ壊しにいけばいいけれど、心の中の壁だからこそ、見えにくくて、壊すのが難しい。

 学欲が封じ込められてきたことが、これほど見事に見過ごされてきた理由を考え続けた末に、僕はこれまで書いてきたようなことに思い至った。思えば、僕らはずいぶんと長い間、学欲という自然な欲求を押さえつけられてきた。そして、いつの間にか自分自身でそれを押さえつけるようになりさえした。

 そろそろ、僕らは僕らの可能性を閉ざしているフタを開けてもいい頃なのではないだろうか。そのために、一人ひとりが自分の心に問いかけて、変わろうとしてもいい頃なのではないだろうか。

 教育という言葉の名の下に、日本中で、いや、世界中で、子どもの「学びたい」という欲求は刈り取られている。その結果、僕らの持っていた学欲は奪い去られ、花開いたはずの可能性の芽は摘まれている。

 子どもはやがて大人になる。そして、学欲を失ったまま大人になった「元・子ども」は、世界の変化や不思議に目を輝かせることなく、社会や世界に無関心になっていく。

 残念ながらいま「大人」と呼ばれる人たちの中には、そのような生き方をしている人が少なくないのではないだろうか。でも、僕はそれがほんとうの「大人」だとは思えない。それは「元・子ども」であって、「大人」になることに失敗してしまった人なのではないだろうか。

 「元・子ども」たちからなる家庭や学校を責めても仕方がない。誰も好き好んで「元・子ども」になろうとしたわけではないし、悪いことをしようとしてこの世に生まれ落ちた人は一人もいない。僕らは、一人ひとりは精一杯生きていて、でも、一人ではどうしようもない現実を前に、残念ながらこのような現状に至ってしまっているだけなのだ。

 でも、それを悲観することはないと思う。ここまで僕はさんざん学校の悪口を言ってきたけれど、僕がそういうことを言うことができるのも、あなたがこの本をここまで読み進めることができるのも、なにはともあれ学校でいろいろなことを習ったおかげなのだ。

 もし僕が百年くらい前に生まれていれば、こうしたことを考えることすらできなかったかもしれない。いや、世界を見渡せば今でも文字すら学ぶことができず、本を読むこともできない子どもは数知れずいるのだ。

 人類はすこしずつ前進していて、だからこそ僕らは今こうして文章を書き、読むことができている。ここまで読み進めることのできるあなたは、その意味で、自分を変えるための力を既に譲り渡されている。どう変わるべきか、その明確な答えはないけれど、求め続ければ必ず手に入る。そう僕は確信している。