「プロセス」から「結果」へ


 良い成績、良い学歴、良い就職先。そういった分かりやすい「結果」の追求を、大人は子どもに押し付けようとする。子どもにとって、そうした「結果」は心から手に入れたいものではない。でも、大人が手に入れるべきだというから、イヤイヤながらも努力する。こうして「結果」を手に入れるために、学びの「プロセス」はないがしろにされる。

 つまらない「プロセス」を延々と繰り返しているうちに、子どもはいつしか「結果」だけを求めるようになる。やりたくないことは省かれるに越したことはない。だから「結果」が手に入ればいいという考え方が大きくなるにつれて、「プロセス」はできるだけ省いたほうがいい、という考え方が強くなる。

 つまり、勉強は避けられるならば避けたい、という気持ちになるのだ。

 小さな頃に持っていた学ぶことを楽しむ気持ちは、このようにして「結果」を求める気持ちへとすり変わっていく。それと同時に、学びたいという自然な欲求、すなわち学欲は失われていく。

 手段と目的が転倒することで、僕らは過度に「結果」を求めるようになる。それによって僕らは学ぶ「プロセス」の楽しみを失っていく。それが、僕らから学欲を失わせる根本的な理由だと僕は思う。

 そして、小さな頃は親をはじめとする周囲から受け止めていた「結果」を大事にする価値観は、そのような環境で時を重ねるにつれて、いつしか僕らの内側にその根を張っていく。その根が僕らの心の隅々まで行き渡り、「結果」を大事にする価値観を全面的に受け入れた時、僕らは他の誰に言われるでもなく、自分で自分に「結果が大事だ」と言い聞かせるようになる。

 こうして、人は「結果」という名の牢獄を自らのうちに作り上げ、そこから抜け出すことができなくなる。「プロセス」を大事にする気持ち、つまりは学ぶことそれ自体を楽しむ気持ちは、もはや手の届かない場所に行ってしまう。このようにして、学歴のような「結果」に囚われ、苦しみながら勉強しようとする哀しい若者が生まれることになる。

 僕は、そうした若者を数えきれないほど見てきた。そして、僕もまた、そのような若者の一人だった。だから、そうした人の気持ちはよく分かる。そうした状況で「プロセスが大事だ」と言われてもピンと来ないのも理解できる。

 でも、もっと小さな頃のことを思い出してほしい。

 勉強をさせられるようになる前は、僕らは「結果」なんて気にせずに、「プロセス」を楽しんでいなかっただろうか。「手段」とか「目的」なんて考えることもなく、それがひとつにあわさったような世界の中で、その瞬間瞬間を懸命に生きていなかっただろうか。

 そうやって「プロセス」に精一杯だったからこそ、たとえば僕らが言葉を身につける時にそうであったように、自然と「結果」がついてきたのではなかっただろうか。

 人工的な「結果のためのプロセス」ではなく、「プロセスから結果へ」の自然な流れが、僕らの変化と成長をもたらし、その喜びが、僕らをさらなる学びへと駆り立てるという循環を生み出していたのではなかっただろうか。