働きたくない、という病


 この国には「働きたくない」と考えている若者が多いように思える。今ではありふれすぎて話題にもならないけれど「ニート」という言葉も流行した。そうした現象にも若者の「働きたくない」という気持ちが現れている。

 最近では、就職活動という言葉には、もはや奴隷になることを受け入れるといった響きさえ感じられることがある。「社畜」なんて言葉をカジュアルに口にする学生もいるけれど、そんな簡単に口にしていい言葉ではないように思える。もし、それすらも理解してその言葉を使っているとすれば、その時までにどれほどの葛藤を経るのだろうか。

 そのような現実を知れば知るほど「働きたくない」と感じるのかもしれない。たしかに、僕も十代の頃はそのように考えていた気がする。働きたい、なんて考えたことはなかった。むしろ働かずに、ずっと遊んで暮らせればいいのに、と思っていた。

 その原因は、大人たちの働いている後ろ姿に輝きを感じられなかったからだ、と今は思う。「働くことは大切だ」という大人たちの背中を見ても、それにかっこいいと思うことはできなかった。楽しそうではないし、充実感もなさそうに思える。そうした背中を見て、それに近づきたいと思えるわけがない。だからこそ、子どもは働きたくないと感じてしまう。

 でも、そうやって働くことを拒否する若者が幸せかといえば、そういうわけではないだろう。遊んで暮らすのは楽しそうに思えるけれど、ゲームセンターやネットゲーム三昧の日々は、僕にとって幸せとは程遠かった。それらは、自分の満たされなさを埋めるための代償行為でしかなかった。

 一般的に考えられている「遊んで暮らす」というイメージは、僕の経験上、それほど充実感のある暮らしではない。むしろ、自分の本当にやりたいことを見つけ、それに全力を尽くしている時が、どんな時よりも喜びを感じられている気がする。

 そして「本当にやりたいこと」は、僕の経験上、自分のためだけに何かをすることではないことの方が多かった。生きていくために最低限必要な欲求が満たされた後は、誰かのために行動する方が喜びは大きかった。

 そうした誰かのための行動、それが僕にとっての「働く」ということだ。

 働くという言葉は「傍(はた)」を「楽(らく)」にするというのが語源だ、とよく言われる。他者を楽にすることで得られるのは、他者からの「ありがとう」という言葉だ。

 僕らは社会という中で生まれ、育っているうちに、そのような他人との関係性の中で自分の存在を意味づけていく性質を持っている。

 そうした僕らが「ありがとう」と言われることのない生活をしていると、自分が生きている価値を感じることができない。衣食住がどれだけ満たされていても、遊んで暮らしていたとしても、どこかで孤独は募る。それほど「ありがとう」の一言は強烈なのだ。

 振り返れば、僕がこの仕事をしているのだって、きっかけは大学一年の頃、インターネット上の掲示板で勉強法を教えている時に言われた「ありがとう」の一言がはじまりだった。こんな自分でも人の役に立つことができるのだと感じたことが、ここまで僕を走らせてきた。