デキる人はもともとデキるのか


 話をすこし前に戻そう。

 学欲を押さえつけているのは「世の中には才能がある人と、そうではない人がいる」という考え方ではないか、というところから僕は二つの話をした。

 スラムダンクの主人公にせよ、オリンピックの選手にせよ、たしかに「才能」があるように思える。才能がなければオリンピックの選手にはなれないだろうし、ましてやメダルなんて取れるわけがない。

 百メートルを十秒以内で走れる素質を持っている人は少ないだろうし、どれだけ努力したってマラソンで二時間十分を切れない人は切れないだろう(たぶん僕はどちらも無理だ)。スラムダンクの桜木花道にだって、身長やジャンプ力をはじめとする身体能力の高さという生まれもった素質があった。

 その意味で、人には等しく同じ素質が与えられているわけではない。それは厳然たる事実だと思う。僕の経験的にいえば、これはスポーツにかぎった話ではないと思う。

 でも、ひとつだけ間違いないのは、どんな「天才」と呼ばれる人であっても、いや、むしろ「天才」と呼ばれる人であればあるほど、その分だけの努力をしている、ということだ。

 人は天才物語を「もともとの才能があったから」という理由で片付けたがる。でも、それは間違っている。たしかに、適性はあったのかもしれない。でも、それを伸ばすために誰よりも努力をしたのだ。だからこそ、彼らは天才と語り継がれる存在になった。

 活躍している人たちが、その華々しい舞台の影でどれだけの努力をしているのかを人は見ない。その方がストーリーとしてはきれいで、よくできていると言えるのかもしれない。でも、そんなのは単なる「お話」に過ぎない。

 そのことを人はなかば意図的に見過ごしてしまう。そうとは意識していなくても、自分の努力をしていないことを正当化するために、そうするのだ。昔の僕のように。

 でも、そのような考え方自体が、自分の努力しようという気持ちにブレーキをかけていることに、そろそろ気がつきはじめているのではないだろうか。

 もしそうだとすれば、本当に「天才」と呼ばれている人たちの生き様から僕らが受け取るべきは「彼らの才能があったから素晴らしい」という結論ではないだろう。そうではなくて、天才と呼ばれるほどの素質を持った人々ですら泥臭い努力をしていたのを知り、自分の素質を花開かせるための努力をする勇気をもらうことではないだろうか。